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【第一章】“The Marshall Mathers LP”全曲解説【発売20周年】

コラム

” The Marshall Mathers LP “は、2000年5月23日にAftermath Entertainment/Interscope Recordsによってリリースされた、エミネムの2枚目のメジャーアルバムです。

多くの評論家から“エミネムの代表作”と評されている” The Marshall Mathers LP “はソロアーティストのアルバム初週一週間の販売記録(179万枚)を樹立し、世界最多記録としてギネスブックに認定。最初の一か月で650万枚、全世界で3,500万枚以上の販売を記録。アメリカレコード協会のダイヤモンド認定(1,000万枚以上販売)を受け21世紀の最高の記録の1つとされています。” The Marshall Mathers LP “(以下”MMLP”)はこれまでで最も売れたラップ・アルバムです。

MMLPは第43回グラミー賞にて”最優秀ラップ・アルバム賞”を獲得し、第46代アメリカ合衆国副大統領ディック・チェイニーの妻リン・チェイニーから”暴力的で性的に露骨な内容の歌詞である“として繰り返し批判を受け、辞書に”Stan”という単語を追加することになり(2017年オックスフォード英語辞典、2019年メリアム・ウェブスター辞典に登録)、実の母親と妻から訴訟を起こされ、銃の不法所持と暴行容疑で逮捕、妻のキムとは離婚することになり、同性愛者及び人権保護市民団体から激しい抗議を受けることになります。

また、このアルバムの成功でヒップホップ界の重要人物として名を連ねる事になります。 Nas は Jay-Z に対して「お前は自分の曲でエミネムに殺された」と伝え“ Renegaded ”という造語がヒップホップ・スラングとして作られることになります。2010年代を代表するラッパー・ケンドリック・ラマー(Kendrick Lamar)の少年期に深い影響を与え、エミネムの最大の特徴である”多重人格視点による作品構成“を彼に教えることになります。

デビューから1st発売まで

MMLPの話に入る前に、このアルバムをリリースする当時エミネムが置かれていた状況を振り返りたいと思います。

1997年10月にLAで開催された”ラップ・オリンピック”に参加。インタースコープ・レコードの研修生に”The Slim Shady EP”のデモ・テープを手渡す。それがジミー・アイオヴィン(Jimmy Iovine)の手元に届き、ドクター・ドレー(Dr.Dre)に渡る。

1998年初頭。エミネムがインタースコープ・レコードに向かい契約。1998年暮れに”リリシスト・ラウンジ・ツアー”に参加。このツアー用にインター・スコープレコードからリリースした曲が”Just Don’t Give A Fuck (SSLP Ver)”です。

1999年2月23日ファースト・アルバム”The Slim Shady LP”(以下“SSLP”)発売。

SSLPは、メジャー・デビュー前に制作していた”The Slim Shady EP”(以下SSEP)をベースにしたアルバムです。全20曲構成の内6曲がSkitソング。
“If I Had… “、” 97′ Bonnie & Clyde”、”Rock Bottom”、”Just Don’t Give a Fuck”の4曲はSSEPにも収録されている曲です。また、”Brain Damage”、”My Fault”、”Cum on Everybody”、”Rock Bottom”、”As the World Turns”、”I’m Shady “、”Bad Meets Evil”、”Still Don’t Give a Fuck”の7曲は Jeff Bass と Mark Bass による兄弟コンビ”ベース兄弟”とエミネムがクレジットされており、Dr.Dreがプロデューサーとしてクレジットされている曲は”My Name Is”、”Guilty Conscience”、”Role Model”の3曲です。

1999年当時「Launch.com」に答えたインタビューによると、SSLP制作でのエミネムとドレーのセッションは12日間で仕上がったとあります。従って、このファーストアルバム制作の大部分はインディー時代から音楽活動を共にした“ベース兄弟とエミネム”となるわけです。(Dr.Dreがプロデュースした曲は全てシングル曲)

超過密スケジュール

デビュー・アルバム発売以降は超過密スケジュールが待ち受けていました。プロモーション活動で各地を飛び回り、6月から7月末まで”ワープド・ツアー”に参加。その後、Dr.Dreのアルバム”2001″の制作に参加。”The Watcher”、”What’s the Difference”、”Forgot About Dre”の3曲に参加しています。発売日が1999年11月16日なので恐らく8月から~9月末までは制作に参加していたと思います。

1999年9月17日。実の母親である Debbie Mathers (デビー・マザーズ)との裁判開始。訴訟の内容は”My Name Is”で母親について触れているリリックの内容と、「最低限は母親の家計を支える」という約束をエミネムが守らなかったという主張です。母親デビーとの確執は長きにわたって繰り広げられることになります。

その後、ヨーロッパツアーが開始。1999年10月25日ノルウェー公演から始まり、11月17日ドイツ・ハンブルグの最終公演まで実に18回の公演で8か国を回る事になります。

2ndアルバムの制作開始

ヨーロッパ・ツアー中にも数曲制作していますが、1999年12月に本格的に2ndアルバムの制作に取り掛かります。このアルバムこそドレーの影響が強く表れた最初のアルバムです。エミネムはこのアルバムを「評論家への答え」(※1)としており、「リアルな自分」を世間に見てもらおうと主張しています。

(※1)SSLPに対する評価は賛否両論で、叙情的な歌詞の影響で「女嫌い」、「同性愛嫌悪者」、「家庭内暴力者(DV)」としてレッテルを貼られてしまいます。ビルボード誌の編集長ティモシー・ホワイトは「エミネムは他人の不幸からお金を稼いでいる」と社説で掲載しています。

実は、ヨーロッパ・ツアーの影響でエミネムは“2ndアルバム”を「アムステルダム」と名付けるつもりでした。オランダがドラッグに寛容的な事と、オランダ人ジャーナリストからの質問に怒ったエミネムが、アメリカに向かう帰りの飛行機の中で数曲書きあげたそうです。

1stアルバムSSLPでは暴力行為が多く描かれていましたが、MMLPでは“怒り”についての描写が多く、主に評論家、妻、母親、ポップアイドルがターゲットにされています。そして「エミネム」、「スリム・シェイディ」、「マーシャル・マザーズ」3つの人格それぞれの曲が収録されているアルバムでもあります。

個人的な推測です。皆さんの意見、コメントください!
( The Way I Am⇒批評家、Kim⇒妻、Kill You⇒母親、The Real Slim Shady⇒ポップアイドル)
(エミネム人格⇒The Way I Am、スリム・シェイディ人格⇒The Real Slim Shady、マーシャル・マザーズ人格⇒Marshall Mathers、Stanの4ヴァース)

また、SSLPに引き続き“ドラッグ ”に関する内容も多く含まれていました。MMLPがリリースされた直後、「Music365.com」に対して「アルバムに収録されている2曲はエクスタシーを使って書いた」と語っています。その内の1曲は”Drug Bullad”(ドラッグ・バラード。文字通りドラッグへの賛歌)である。曲中に“エクスタシー”のワードが3回出てきます。

怒りの根源

インタースコープとの契約以降、超過密スケジュールが愛娘ヘイリー(当時4歳~5歳)との時間を奪います。2005年デトロイトのラジオ番組”Mojo In The Morning”に出演した際、”When I’m Gone”のインタビューの返答にて

「この曲(When I’m Gone)は基本的に家族と離れるのが嫌で、家を離れていたことで抱えていた罪悪感について書いたものなんだ。ステージのために家を出なければならなかったことに気付いた。俺の第二の情熱は大勢の人の前でラップをすることなんだけど、今のところ家族ほど大切なものはないよ」

と語っており、しばらく表舞台への露出は控えることになります。エミネムにとって、なによりも“大切な存在”は娘ヘイリーであり、音楽活動と家庭の両立という葛藤が生じ苦しむことになります。

音楽メディアやインタースコープ上層部の“評論家達”もエミネムへの“圧力”を強めていきました。MMLPの制作も大詰めの時期に差し掛かっていたころ、インタースコープ・レコードの上層部は先制パンチになる”シングル曲“がないとエミネムに圧力をかけていた。当初、エミネムは”Who Knew”と”I’m Back”を1stシングルとして希望していたが、上層部の返事はどちらも却下だった。「何が不満なんだ?また”My Name Is”みたいな曲を作れって事か?」と上層部に問いただすと「そういうわけではないが。。。」と遠回しにマイネームイズのような曲を作れと言いたげなやりとりがあった。その時の会議を再現したシーンが”The Way I Am”のMVのヴァース3のシーンだ。
“My Name Is パート2″を作るように言われたエミネムが、インタースコープに提出した曲が”The Way I Am”だ。上層部が求めていたシングル曲と正反対の曲を叩きつけ、レーベルへの反抗心を示した。上層部の返答は「いい曲だが、ファースト・シングル向きではない」。その頃、インタースコープの上層部は”Criminal”をファースト・シングルにしようと話を詰めていた。そこで少し時間を欲しいと頼み込み、その二日後に滑り込みで仕上がった曲が”The Real Slim Shady”だ。”The Real Slim Shady”はMMLPの収録曲の中で最後に仕上がった曲です。皮肉にもエミネムを苦しめていた上層部からの圧力が、名曲を2曲生み出すきっかけとなります。

第二章に続きます。

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コメント

  1. […] 第一章にて”The Marshall Mathers LP”(以下MMLP)がリリースされるまでの“流れ”を投稿しました。第二章からは収録曲の解説を掲載。(※)歌詞の掲載は非常に”ややこしい“問題に繋がりますので掲載しません。ご理解ください。 […]

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