エミネムは、その才能あるラップスキルと鋭い歌詞で世界的に名を馳せる一方で、長い間薬物依存の闘いに直面してきました。成功の裏には、人生の厳しい現実と向き合う過程が隠されています。この記事では、エミネムの薬物依存症と克服の過程を深掘りします。
どのようにして薬物に依存し始めたのか、その背後にある心理的要因とは何だったのか。さらに、薬物依存が音楽キャリアや人間関係に与えた影響にも焦点を当てます。エミネムは、自身の人生を立て直すためにどのような努力をしたのか。そして、その過程で得た教訓とは何だったのか。エミネムの復活劇は、困難な状況から這い上がる希望を持つ人々に勇気を与え、克服の可能性を示してくれるかもしれません。
エミネムの成功と薬物依存の始まり
エミネムのキャリアは薬物依存との闘いに打ち勝ったことで保たれた。デトロイトの貧困層で育ち、幼少期から家庭の不安定さに直面していた。この環境は、内面に不安や孤独感を刻みつけ、後の薬物依存へとつながる可能性を高めた。
衝撃のメジャーデビューから頂点へ
1999年2月23日、エミネムはアルバム”The Slim Shady LP”をAftermath EntertainmentとInterscope Recordsからリリースしメジャーデビューを飾る。ビルボード200で最高2位を記録した。音楽評論家たちはエミネムのユニークなリリックスタイル、ダークユーモアな歌詞、奇抜な個性を賞賛した。このアルバムは2000年のグラミー賞で最優秀ラップ・アルバム賞を受賞した。
“The Slim Shady LP”の成功により、無名のラッパーから一躍グラミー賞受賞ラッパーに転身した。翌年2000年5月には2ndアルバム”The Marshall Mathers LP”をリリース。このアルバムはビルボード200で初登場1位を獲得し、8週連続で首位をキープした。また、全世界で2,500万枚を売り上げ、史上最も売れたアルバムのひとつとなり、全米レコード協会(RIAA)から11×プラチナ認定を受けている。
2002年5月26日、3rdアルバム”The Eminem Show”をリリース。当初は2002年6月4日にリリース予定であったが、海賊版がインターネット上に出回ったため、9日前の2002年5月26日に急遽リリースされた。想定外のリリースであったが、ビルボード200で初登場1位を記録し、6週連続で1位を獲得した。全米では2週目にして130万枚以上を売り上げた。
“The Eminem Show”は、2002年アメリカで最も売れたアルバムであると同時に、2002年世界で最も売れたアルバムでもある。また、音楽史上最も売れたヒップホップアルバムであり、エミネムにとって現在までに最も商業的に成功したアルバムとなっている。
名実ともにヒップホップ界の頂点に登り詰めたエミネムであったが、多忙な日々によって受けたストレスが精神的なダメージを与えていた。
薬物依存のきっかけ
エミネムが中毒になったのは、クラックやヘロインのような違法なストリート・ドラッグではなく、多くの人が合法だから無害だと思っていたドラッグ、処方箋薬のオピオイドだった。服用のきっかけは長時間に及ぶ音楽活動で休む暇がなかったからだと言われている。エミネムの体調を気遣う身近な人間が与えたこの薬は、すぐに眠りにつくことが可能でツアー中の時間を有効に使えるという利点があった。
オピオイドは鎮痛や鎮静のために使用される薬で中枢神経系に影響を及ぼし、主に鎮痛や鎮静などの医療目的で使用される。一般的なオピオイドの種類には、モルヒネ、コデイン、オキシコドン、ヒドロコドン、フェンタニルなどがある。
キャリアの絶頂期を迎えていたエミネムは”Limp Bizkit”らと共に”Anger Management Tour”に参加。特に多忙を極めたのが2002年7月18日に初日公演を迎えた”Anger Management Tour 2″であった。最終日2003年6月27日のパンチェスタウン競馬場(アイルランド)公演までに、42公演、日本、ヨーロッパを含む8か国を飛び回った。
また、同時期に初主演映画”8 Mile”の撮影も重なっていた。映画の撮影が続く間にもアンビエンを服用していた。
2005年夏には、50セント、Gユニット、リル・ジョン、D12、オービー・トライス、アルケミストを迎えた”Anger Management 3 Tour”で3年ぶりとなるツアーを開始したが、8月にはヨーロッパ・ツアーをキャンセルした。「睡眠薬依存症」の治療のために薬物依存症のリハビリに入った。
エミネムは後のインタビューで2002年から2008年にかけて、バイコディン、バリウム、アルコールを混ぜて服用していたと語っている。一時期は、睡眠導入剤のアンビエンを追加したこともあったと語った。
ドラッグをテーマにした曲
キャリア初期にリリースされたドラッグをテーマにした曲を取り上げます。ただし、これらの曲の内容は一部が暴力的な表現や過激な言葉を含む場合があるため詳細な解説は控えます。
“Drug Ballad”(2000年5月リリース)
当時のエミネムにとってのラブソング。アルコール、溶剤、エクスタシーなど愛と憎しみの入り混じった関係について表現している。エミネムは基本的に体に詰め込むことができる物質なら何でも取り込んでいた。
[Chorus: Eminem & Dina Rae]
‘Cause every time I go to try to leave (Whoa)
俺が離れようとするたびに
Something keeps pullin’ on my sleeve (Whoa)
何かが俺の袖を引っ張ってくる
I don’t wanna, but I gotta stay (Whoa)
したくないけど、ここに居なきゃ
These drugs really got a hold of me (Whoa)
このドラッグ達は俺を支配している
‘Cause every time I try to tell ‘em “no” (No)
俺が『ノー』と言う度に
They won’t let me ever let ‘em go (Go)
ヤツらは俺を離さない
I’m a sucker all I gotta say (Whoa)
俺はおめでたい奴だと言わざるを得ない
These drugs really got a hold of me (Whoa)
このドラッグ達は俺を支配している[Outro: Eminem]
“Drug Ballad”,Featuring Dina Rae,Produced By Bass Brothers & Eminem,Written By Eminem, Jeff Bass & Mark Bass,Release Date May 23, 2000
Drugs really got a hold of me
ドラッグ達は俺を支配している
Really got a hold of me
マジで俺を離さない
These drugs really got a hold of me
このドラッグ達は俺を支配している
They really got a hold of me
マジで俺を離さない
エミネムはこの曲について「この曲は、ある日ただふざけて作った曲の1つだ。20分くらいで韻を踏んだんだ。3ヴァース全部さ。フックはシンプルだった。ベースラインはジェフをハミングしたんだ。去年はいつもめちゃくちゃだった。俺にとって大きなパーティーのような生活だった。売れた最初の年だったから、たくさんお祝いしたのさ」とコメントしている。
“Purple Pills”(2001年6月リリース)
エミネムの地元デトロイトで結成したラップグループD12のデビュー・アルバム”Devil’s Night”からのファースト・シングル。当時のMC達はドラッグを売ったりマリファナを吸ったりすることをラップしていたが、D12はストリートや薬箱で手に入るあらゆるものを喜んで試していた。
[Chorus: Eminem]
“Purple Pills”,Produced By Jeff Bass & Eminem,Written By Jeff Bass, Bizarre, Swifty McVay, Proof, dEnAun, Kuniva & Eminem,Release Date June 5, 2001
I take a couple uppers
いくつかのアッパー(興奮剤)を摂る
I down a couple downers
いくつかのダウナー(抑制剤)も飲んだ
But nothin’ compares
だけど比べ物にならない
To these blue and yellow purple pills
このブルーとイエローのパープルの錠剤には
I been to mushroom mountain
マッシュルームの山にも行ったことがある(マッシュルームでハイになったことがある)
Once or twice, but who’s countin’?
1回か2回、でも誰が数えてるんだ?
But nothin’ compares
だけど比べ物にならない
To these blue and yellow purple pills
このブルーとイエローのパープルの錠剤には
[Verse 1: Eminem]
Cool, calm, just like my mom
クールで冷静、まるで俺のママみたいに
With a couple of Valium inside her palm
彼女の手のひらの中にはヴァリウムが数個
It’s Mr. Mischief with a trick up his sleeve
トリックで袖に隠したミスター・ミスチーフだよ
To roll up on you like Christopher Reeves
まるでクリストファー・リーブスみたいにやってくる
I can’t describe the vibe I get
俺が得たこの雰囲気は説明できない
When I drive by six people and five I hit (Whoops!)
ドライブで6人を通り過ぎて5人とぶつかった時
Aw shit, I started a mosh pit
クソ、モッシュピットを始めてしまった
Squashed a bitch and stomped her foster kids
ビッチを潰して、彼女の養子を踏みつけた
These shrooms make me hallucinate
このキノコたちは俺を幻覚症状にさせる
この曲は、エミネム、ビザール、プルーフ、スウィフティ、そしてクニーヴァとコン・アーティスのジョイント・ヴァースで構成されている。薬物使用への言及が多く含まれており、”purple pills”、”golden seals”、”Mushroom Mountain”などは、娯楽用薬物使用の例である。ドラッグやセックスへの言及があったため、ラジオ局で流すには不適切と判断され、クリーン・バージョンの”Purple Hills”が用意された。
薬物依存の影響で音楽活動を休止
2005年8月16日深夜、所属レーベルのインタースコープ・レコードが”Anger Management 3″のヨーロッパツアーをキャンセルすると発表した。エミネムは、9月1日にドイツのハンブルグで始まり、9月17日にアイルランドのミースで終わるヨーロッパ公演のヘッドライナーを務める予定だった。D12のリーダー、プルーフはエミネムについて「彼はちょっと疲れてるんだ。クレイジーだよ。俺たちはこの7年間ずっと走り続けてきたけど、誰もそうやって見てくれない」とコメントした。
リハビリ施設に通院
2005年8月19日、インタースコープ・レコードの広報、デニス・デネヒー(Dennis Dennehy)はエミネムが睡眠薬依存の治療を受けていると発表した。
業界関係者はエミネムが引退を考えていると推測。そして”The Funeral”(葬儀)と題された2枚組アルバムがリリースされるという噂が流れていた。スリム・シェイディ、マーシャル・マザーズを含むエミネムの3つの人格すべての楽曲が収録される予定だった。
“The Funeral – featuring Bizarre”、”The Funeral – featuring Dr.Dre”、”The Funeral – featuring Obie Trice”、そしてDreプロデュースの新曲 “Where I’m Standing (In the Game) “と題された4曲の新曲も収録される予定だった。エミネムの3つのペルソナをすべて”休息”させ、新しいエミネムへの道を切り開くためというものだ。
2005年7月、デトロイト・フリー・プレス紙は、エミネムが一線から退き裏方の役割を受け入れるという側近のメンバーの言葉を引用し、ソロ・パフォーマーとして最後の一歩を踏み出す可能性を報じた。
音楽活動を休止
2005年12月、エミネムは自身初となるベストアルバム”Curtain Call: The Hits”をリリース。プロモ活動の一環としてラジオ番組”Mojo in the Morning”に出演。エミネムは「自分のキャリアがどこに向かっているのかわからないような気がする……。これが最後になるかもしれないから、『カーテンコール』と名付けた。どうなるか分からない」と語りアーティストとしての活動を休止することを示唆した。
“When I’m Gone”(2005年12月リリース)
“Curtain Call: The Hits”からのリードシングルとしてリリースされた”When I’m Gone”。エミネムは、娘ヘイリーとの関係や、彼の不在がヘイリーや家族、そして彼自身にどのような影響を与えているか、家族がバラバラになっていく悲しみをイメージで表現している。
エミネムの鬱病とプルーフの死がもたらした闇
2006年4月11日、デトロイトの8マイル・ロードにあるCCCクラブでビリヤードのゲーム中に口論となり、プルーフが銃撃されて死亡した。頭部に1発、胸部に2発撃たれていた。
親友プルーフの死は、エミネムに精神的なダメージを与えうつ病を患った。
2006年4月19日、デトロイトのフェローシップ・チャペルでプルーフの礼拝が行われ、エミネム、ロイス・ダ5’9、50セントら2,660人が参列した。
親友のデショーン・”プルーフ”・ホールトンが殺された後、エミネムは”中毒が頂点に達した”と語った。一度に10人ものドラッグディーラーとつ付き合い、一晩に75~80錠のバリウムを飲んでいたという。
「プルーフの件があって、俺の中毒症状は極限に達していた。プルーフが亡くなった後、俺は一人で家にいて、ベッドに横になって動くこともなく、天井の扇風機をずっと見つめていたのを憶えている。そして、ますます多くの薬を摂取していた。二日間ぐらい歩くことが出来ずに、薬の量が急激に増加していた」
EXCLUSIVE:EMINEM GIVES RARE INTERVIEW ON HIS CAREER,BATTLE WITH ADDICTION AND WHY HE’S GOING TO KEEP RAPPING
また「朝早く起きてバイコディンを飲む、これが毎日の食事だった」と語り、1日に最高30錠を摂取していたと証言している。
Vicodinはオピオイド系鎮痛薬で、Valiumはベンゾジアゼピン系の抗不安薬および筋弛緩薬です。どちらも依存性や健康リスクがあるため、医師の指導の下で適切に使用される必要があります。
メタドンの過剰摂取で緊急搬送
2007年12月、エミネムはクリスマスにメタドンの過剰摂取により緊急搬送された。病院に着くと中毒の厳しい現実に直面した。臓器が停止しており、あと2時間待てば死んでいただろうと告げられたのだ。エミネムは腎不全と肝不全の真っ最中で、病院は透析を行う予定だった。病院側は、エミネムが助かるかどうか確信が持てなかった。
「バイコディンを買いに行って、メタドンをもらったことを覚えている。その人物は、『これはバイコディンと似てて肝臓にもやさしい』と言っていた。見た目も形もバイコディンに似ていた。帰り道の車の中で1錠飲んで、『ああ、これはヤバイ』と思ったのを覚えている。興奮したよ。2~3日で飲みきって、また買いに行った。たくさん買ったよ。
過剰摂取に至る12月の1カ月間は、何も覚えていない。覚えているのは、ベッドから起き上がれなかったことだけだ。あるとき、昼間だったか、夜だったかわからないけど、トイレに行こうと立ち上がった。立って小便をしようとして、転んだんだ。床を強く打った。立ち上がって、もう一度しようとしたら、また転んだ。そしてその時は起き上がれなかった。
そのことを誰かに詳しく話したことはない。どうにかベッドに戻れたとは言われるけど。それは覚えていない。覚えているのは、トイレの床に激突して、病院で目が覚めたことだけだ。
最初に覚えているのは、動こうとしても動けなかったこと。管が入っていて、麻痺しているようだった。声も出なかった。医者にはヘロイン4袋相当の量を摂取したと言われた。あと2時間遅ければ死んでたって。
2日間気を失っていたと思うんだけど、目が覚めたとき、クリスマスだと気づかなかったんだ。だから最初にしたかったのは、子供たちに電話することだった。家に帰って、パパが無事だってことを見せたかったんだ」
“Eminem on the Road Back From Hell”,Rolling Stone,October 18, 2011
子供たちのために決死のリハビリを決意
退院後1ヵ月も経たない内に薬物依存症が再発した。エミネムを奮い立たせ、依存症回復を成功させる力を与えてくれたのは子供たちだった。子供たちを見て、自分は子供たちのために存在する必要があると気づいたという。
「自分の生活を変えなきゃって思った。でも中毒というのは厄介なものだ。たしか3週間以内に再発(リラプス)した。そして1ヵ月も経たないうちに、また元の状態に戻ってしまった。それで本当に怖くなった。助けを求めないと死ぬかもしれないと。
父親として、俺はここにいたい。もう何も失いたくない。
いくつかのミーティングを試して、数回教会にも行った。でも、あまりいいことはなかった。みんなクールに振る舞おうとしてくれたけど、何度かサインを求められた。それで閉ざしてしまった。その代わり、最初に俺を助けてくれたリハビリ・カウンセラーに電話した。今は週に1回、彼に会っている」
“Eminem on the Road Back From Hell”,Rolling Stone,October 18, 2011
エミネムはリハビリのカウンセラーと協力し、困難で痛みを伴う解毒を行った。彼は3週間、1日24時間起き続け、話したり歩いたりといった身体を動かすことを学び直さなければならなかったという。
2008年初頭、依存症から回復するために12ステッププログラムを開始した。
12ステッププログラムは、アルコール依存症や薬物依存症、ギャンブル依存症、食事障害、その他の依存症や問題行動に取り組むための自助グループプログラムです。
エルトン・ジョンに助けを求める
エミネムは何度も薬物中毒を克服しようと試みたが成功していなかった。そんな時、彼に救いの手を差し伸べたのが、歌手のエルトン・ジョン(Elton John)であった。
(右)2020年アカデミー賞にて
エルトン・ジョンに連絡を取った理由について語っている
「(エルトンは)過去に薬物乱用の問題を抱えていた。だから、俺が最初にシラフになりたいと思った時、彼に電話したんだ。彼はこの業界の人間で、ライフスタイルや物事の慌ただしさに共感してくれるからね。彼はプレッシャーとか、ドラッグをやるために思いつくどんな理由も理解してくれる」
“The Eminem interview”,By Bill Holdship on Wed, May 13, 2009 at 12:00 am
薬物中毒者からマラソン中毒者へ
エミネムは、自分が中毒者の思考を持っていることを認め、中毒者の思考をより健康的な別の中毒に置き換えたいと考えた。スタジオに行く前の朝に8.5マイル(約14km)、帰宅後にさらに8.5マイル、トレッドミルで1日17マイル走るという極端なことをしていたと語っている。
薬物依存時のエミネムの体重は230ポンド(約104kg)まで膨れ上がっていたが、ランニングによるリハビリの結果149ポンド(約67.5kg)まで体重を落とした。
「俺は中毒者の思考を持っていて、走ることになると少し夢中になっていた。まるでハムスターみたいにな。トレッドミルで1日17マイル(約27km)走ってた。朝起きて、スタジオに行く前に1時間くらいかけて8.5マイル(約13,5km)走る。それから家に帰って、また8.5マイル走る」
“Eminem Battled Drug Addiction With Running: ‘I Became a F—ing Hamster’”,By Jackie Frere,08/3/2015
必死のリハビリの結果、2008年4月20日から断酒、断薬を開始した。
4年振りの新作アルバム“Relapse”をリリース
エミネムの新しいアルバムに関する噂は、2007年半ばから噂されていた。当時のShady Recordsのメンバーであった50 CentとStat Quoがエミネムの新作について発言していた。薬物依存症克服のための12ステッププログラムを完了した後、2008年半ばから新アルバム“Relapse”制作に本格的に取り掛かった。
このアルバムのコンセプトはホラー、薬物リハビリ、再発(リラプス)となっている。エミネムはアルバムのテーマが”The Slim Shady LP”と”The Marshall Mathers LP”に近いと述べ、Slim Shadyとしての悪ふざけが復活したと語った。
日本で史上初の一位を獲得
2009年の待望作としてリリースされた”Relapse”は、初週に608,000枚を売り上げBillboard 200で1位でデビューした。また、日本を含む他の12か国でも1位を獲得した。日本での洋楽HIP HOPソロアーティストの首位獲得は史上初であった。
このアルバムからは”Crack a Bottle”、”We Made You”、”3 a.m.”、”Beautiful”という4つのシングルがリリースされ、Dr. Dreと50 Centをフィーチャーした”Crack a Bottle”は、Billboard Hot 100で1位を獲得した。
完全復活作”Recovery”
エミネムは”Relapse”に収録できなかった音源が大量にあり、ファンにもっと多くの楽曲を提供する必要があると感じていた。D12のメンバーであるSwiftは実際にエミネムが2009年に2枚目のアルバムをリリースする予定であることを確認し、”Relapse 2″が2009年末に続くことになると語っていた。
「酒やドラッグをやめてから、以前のようにレコーディングを再開するプロセスで、再び曲を作ることに興奮していた。ただ音楽に集中したかったんだ。たくさんの曲をレコーディングしたから、アルバムを2枚出そうかと考えた。それが俺のモチベーションになっていた。努力を続けて曲作りを続けていたかったんだ。”Relapse 2″に没頭するようになったとき、今はライブパフォーマンスから離れて、自分が作れる最高の音楽を作ることに集中したいと思った。新アルバムが出た後、その後の展開を見て決めるつもりだ」
“Eminem’s Relapse 2 Will Be More ‘Emotionally Driven'”,By Jayson Rodriguez,Oct 7 2009
2010年4月、エミネムは「Relapse 2は存在しない」とツイートした。アルバムは新プロジェクトである”Recovery”に生まれ変わったことを発表した。”Relapse 2″を制作しながら、”Relapse”がファンと評論家の間で賛否両論の反応であったことを目の当たりにして、”Relapse 2″用に制作された音源のほとんどを捨て、ゼロから始めることを決意した。
前作よりも感情的な作品
「この作品の全体的な構想は、感情をより重視した曲に戻した。前のアルバムでは、ラップすることに焦点を当てていた。だけど、このアルバムでは、それも一部あるけど単なるラップレコードではなく、”感情を持つ”曲に戻したんだ」
“Eminem’s Relapse 2 Will Be More ‘Emotionally Driven'”,By Jayson Rodriguez,Oct 7 2009
“Recovery”はエミネムの以前の作品と対照的に、スキットが含まれておらず、Slim Shadyとしての側面が抑えられている。
エミネムの復活への道(Road to Recovery)
“Recovery”のアルバムジャケットには、エミネムが復活への道(Road to Recovery)を歩いている姿が描かれている。トレードマークのフードとニット帽が写っている。10曲目のトラック”Space Bound” でこの状況を表現している。
“Road to Recovery”は、困難な状況からの前向きな変化や改善を表現する際に使用され、努力や支援が必要なプロセスを指している。
Nobody knows me, I’m cold
“Space Bound”,Produced By Jim Jonsin,Written By Jim Jonsin, Steve McEwan & Eminem,Release Date June 18, 2010
誰も俺の事なんて知らない、寒いな
Walk down this road all alone
この道を一人で歩いていく
It’s no one’s fault but my own
誰のせいでもない、俺自身のせいだ
It’s the path I’ve chosen to go
これは俺が選んだ道だ
“Recovery”のブックレットには、「このアルバムは暗い場所から抜け出そうとしている誰かに捧げられている。前を向いて…状況は良くなる!」という言葉が記されている。
現在、エミネムは薬物依存から立ち直り音楽界での成功を続けている。どんなに深刻な困難に直面しても、希望を持ち、克服が可能であることを証明してくれた。
コメント