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【第一章】エミネムの生い立ち・母親や父親、ラップとの出会いについて

コラム

エミネムが少年時代までに経験した壮絶な生い立ちについて。生後間もない時に別れた父親、いじめの対象だった少年時代、唯一心を許せる家族だと思っていた叔父の死、ラップとの出会いのきっかけについてまとめています。

プロフィール

エミネム/Eminem
本名:マーシャル❝ブルース❞マザーズ3世/Marshall Bruce Mathers III
別名:スリム・シェイディ/Slim Shady
誕生日:1972年10月17日
生まれ:アメリカ合衆国 ミズーリ州 セント・ジョゼフ
身長:173cm
配偶者:無し

主な功績

第53回グラミー賞にて受賞スピーチを行うエミネム。2011年

  • 10枚のアルバムをビルボード 200 で連続して初登場一位でデビューさせた、唯一のアーティスト
  • 「Lose Yourself」でアカデミー賞最優秀オリジナル曲賞を受賞。ヒップホップアーティストとしては初の快挙
  • 全世界で2億2千万枚以上のレコードを売り上げている
  • 『The Marshall Matehres LP』、『The Eminem Show』の2枚のアルバムと、『Lose Yourself』、『Love the Way You Lie』、『Not Afraid』の3枚のシングルで全米レコード協会(RIAA)からダイヤモンド以上(千万枚)の認定を獲得。

両親について

母デビーと父マーシャル・ジュニア

父:マーシャル❝ブルース❞マザーズ・ジュニア/Marshall Bruce Mathers Jr.
誕生日:1951年6月30日
死亡:2019年6月26日

母:デボラ・レー・”デビー”/Deborah Rae “Debbie”
通称:ネルソン
誕生日:1955年1月6日

エミネムの両親は『ダディ・ウォーバックス』(Daddy Warbucks)というバンドを結成しており、ダコタとモンタナ州との国境沿いにあった『ラマダ・イン』系列のホテルを回って演奏していた。
エミネムの母デビー・ネルソンは『ジミ・ヘンドリックス』(Jimi Hendrix)好きのロッカーで、ロックバンド『トーキング・ヘッズ』(Talking Heads)や『スティーヴィー・ニックス』(Stevie Nicks)を見るために、幼いころのエミネムを連れてライブを見に行った。(エミネムは『フリートウッド・マック』(Fleetwood Mac)の『Rhiannon』が好きだったらしい)
出典:https://www.nme.com/blogs/nme-blogs/the-roots-of-eminem-21850

D12のメンバーであるMr.ポーターは「エミネムのメロディ作りのベースは1980年代の楽曲だ」と語っており、母デビーの影響を少なからず受けている。

1970年に二人が出会ったとき、父マーシャル・マザーズ・ジュニアは21歳、母デビーは15歳の少女だった。
1972年に結婚。二人はノース・ダコタにあるマーシャル・ジュニアの実家に生活の拠点を移した。

エミネムは、1972年10月17日にミズーリ州セントジョセフでマーシャル・マザーズ・ジュニアとデボラ・レー・”デビー”の間に生まれた。母デビーは73時間の陣痛の末に出産、死と隣り合わせであったという。
出典:https://www.salon.com/2000/07/25/eminem_secrets/

父との辛い過去

父マーシャル・ジュニアとエミネム

父はブルース(Bruce)というミドルネームで呼ばれていたが、エミネムが生まれた6か月後にはカリフォルニアに引っ越して離婚。
10代の頃、エミネムは父親に手紙を書いていたが、「宛先不明」で戻ってきた。少年時代に度々、父マーシャル・ジュニアの伯母の家を訪ねていたが、マーシャル・ジュニアは相手をしなかったという。
2ndアルバム「 The Marshall Mathers LP 」をリリースした後、自分と同じ名前のラッパーの存在を知ったマーシャル・ジュニアは、ニュース・オブ・ザ・ワールド誌のインタビューに応じエミネムへ向けた手紙を公開した。
これは父マーシャル・ジュニアが息子に接触しようとした唯一の試みだったがエミネムには響かなかった。2010年にCBSで放映されたアンダーソン・クーパー司会の番組『60ミニッツ』のインタビューの中で、エミネムは父親に会いたいとは思っていないと返答している。「もし子供たちが地球の果てに離れたとしても、俺は間違いなく彼らを見つけるだろう。お金がなくても、何も持っていなかったとしても必ず子供たちを見つけるだろう」と父マーシャル・ジュニアについて理解できないと語っています。

マーシャル・ジュニアは一度も息子と会話することなく、2019年6月26日に亡くなっている。2020年にリリースしたアルバム『 Music to be Murdered by 』に収録されている曲『 Leaving Heaven 』では父の死について触れている。

動揺したほうがいいのか?/あんたが死ぬ前から俺にとっては死んだも同然だった
涙は流さない
葬儀で壁画でも描くべきだったか?
棺に英雄の旗を飾るべきだったか?
今までどこにいたんだよ?/リオ・グランデ(ミシガン州で展開している飲食店チェーン店)でディアンジェロにいじめられていた時も
孫にも会えなかったな/臆病者め
勇気もなかったし、脂肪だらけの腹だった
あんたのケツは天国に行くことはできない
だから、地獄行きのパスを求めるよ
そしたらあんたのケツを叩いてやるぜ
面と向かって「大嫌い」と言えなくなるのが憎い

Eminem,『 Leaving Heaven 』2020

父は地獄行きだと言い放ち、自身も地獄行きのパスを求め父を追いかける。少年時代にぶつけることが出来なかった、父への感情を詰め込んだ曲です。

エミネムの兄弟

父マーシャル・ジュニアと再婚した妻の間には、マイケル・マザーズ(Michael Mathers)とサラ・マザーズ(Sarah Mathers)という2人の子供がいます。エミネムとは異母兄弟の関係にあたります。

エミネムの母親であるデビーは、エミネムの異父弟にあたるネイサン・サマラ・マザーズ(Nathan Samara Mathers)という息子がいます。

母との貧困生活

幼少期、エミネムと母デビーはミシガン州とミズーリ州を行き来した生活を送っており、1つの家に1年~2年以上滞在することはほとんどなかった。デビュー当時のインタビューによると、母デビーは仕事に就いていなかったため生活保護を受けており、主にカンザス・シティにいる親戚とデトロイトに住んでいる親戚の家を転々とする生活を送っていた。ミズーリ州では、セント・ジョセフ(St. Joseph)、サバンナ(Savannah)、カンザス・シティ(Kansas City)など数カ所に住んでいた。

2002年にリリースした『 Cleanin’ Out My Closet 』の中で、母デビーがミュンヒハウゼン症候群に苦しんでいると述べている。

ミュンヒハウゼン症候群(ミュンヒハウゼンしょうこうぐん、英: Münchausen syndrome)は虚偽性障害に分類される精神疾患の一種[1]。症例として周囲の関心や同情を引くために病気を装ったり、自らの体を傷付けたりするといった行動が見られる。

Wikipediaより

また、『My Mom』という曲では、母親がジアゼパム中毒で、エミネムが幼いころ、彼の食べ物にジアゼパムを振りかけていたとラップしている。
出典:https://melmagazine.com/en-us/story/eminem-mom-debbie-mathers

ジアゼパム(英語: Diazepam)は、主に抗不安薬、抗けいれん薬、催眠鎮静薬として用いられる、ベンゾジアゼピン系の化合物である[1][2]。筋弛緩作用もある[3]。アルコールの離脱や、ベンゾジアゼピン離脱症候群の管理にも用いられる。

Wikipediaより

いじめにあっていた少年期

1982年、10歳のエミネム

生活保護を受ける貧困生活と転向を繰り返していた生活の影響で、少年期のエミネムは極めてシャイで委縮した様子の子供で、常に学校でいじめの対象にあったという。
エミネムが9歳~10歳になるころ、2学年上のディアンジェロ・ベイリー(DeAngelo Bailey)に暴行を受け、頭に重傷を負う事件が起きた。ベイリーは「重いものや氷のかけら」が入った雪玉を丸めてエミネムの頭に投げつけた。
出典:https://www.joe.ie/music/eminem-bullying-birthday-603989

母デビーがローリング・ストーン誌に答えたインタビューによると「息子は脳出血を起こし、5日間意識が無い状態でした。医者は息子を諦めていましたが、私は息子を諦めなかった」と語っている。1982年、母デビーは当時通っていたドート小学校(Dort Elementary school)及び、地域の教育委員会を相手に訴訟を起こしたが、ミシガン州マコーム郡の裁判官から『学校は訴訟の対象にならない』と言い渡たされたため、翌年には却下された。法的文書、逮捕記録などを取り扱う米国のウェブサイト『The Smoking Gun』が入手した裁判所の文書によると、母デビーは10,000ドルの訴訟を起こしていた。訴状の中で、息子(エミネム)が脳震盪、心的外傷後頭痛、および断続的な視力と聴力の喪失に苦しんでいたと主張した。
出典:https://genius.com/a/eminems-bully-de-angelo-bailey-once-tried-to-sue-him-the-judge-dismissed-it-with-a-rap

『ブレイン・ダメージ』(脳傷害)

メジャーデビューアルバム『 The Slim Shady LP 』に収録されている『 Brain Damage 』は、いじめっ子ベイリーとの出来事を取り上げた曲である。ベイリーの事をボクサーの父親を持つ、太った黒人少年と紹介している。
❝毎日のようにロッカーに押し込められ殴られていた事❞、❝トイレの便器に顔を叩きつけられ、鼻の骨が折れた事❞などが歌われている。
2001年12月、この曲がきっかけでベイリーから名誉棄損で訴えられていたが、2005年4月16日、訴えが最終的に却下されている。

8マイル・ロードを歩いて通った中学校

リンカーン中学校(Lincoln High School)に在籍していた12歳の頃、デトロイト東部に引っ越しをしたが、友達ができはじめたことでリンカーン中学校に留まることを選択し転校を拒否した。片道3キロ弱、8マイル・ロードを歩いて通学していた。

エミネムは少年期を労働者階級の黒人が多いデトロイトの地域で過ごした。 地区に3軒しかない白人家庭のうちの1軒であったという。この時期エミネムは黒人少年の集団に何度も襲撃されている。
出典:https://www.rollingstone.com/music/music-news/eminem-blows-up-91979/

「俺は賢い子供だったけど、学校は嫌いだった。中学3年で3回もダブったんだ。ただラップがしたかったんだよ」
出典:https://www.latimes.com/archives/la-xpm-2000-may-14-ca-29770-story.html

エミネムは中学3年時に3度の留年を経験。
生活保護を受け失職中の母デビーから、家計を助けるために仕事をするように強制され、高校を退学しています。

弟ネイサンとキムとの出会い

1986年エミネムが13歳になる頃、継父フレッド・サマラ・ジュニア(Fred Samara Jr) と母デビーとの間の子供で、異父弟にあたるネイサン・サマラ・マザーズ(Nathan Samara Mathers)が産まれた。

その二年後、後の妻となるキンバリー・アン・スコット(kimberly anne scott)(通称:キム)と出会う。出会った当時エミネムは15歳、キムは12歳であった。

キムとキムの双子の姉妹は、地元の養護施設に送られ生活していたが、エミネムと付き合うようになり母デビーの元で一緒に生活する事もあった。

漫画に夢中になっていた少年時代

少年時代のエミネムはストーリーテリングに興味があり漫画家になることを夢見ていた。幼いころからの、❝もう一つの夢❞を実現させたアニメ『The Slim Shady Show』をリリースしています。このアニメは『サウスパーク』(South Park)に似た感じの作品になっている。各エピソードは5分程度の長さで、エミネム自身のほか、マネージャーのポール・ローゼンバーグ(Paul Rosenberg)や、ラッパー仲間のイグジビット(Xzibit)も出演しています。
出典:https://www.ladbible.com/more/awesome-eminem-wanted-to-be-a-comic-book-artist-if-he-wasnt-a-rapper-20170224

ラップとの出会いと叔父との別れ

少年時代のエミネムが家族と思える数少ない人物に叔父のロニー(本名:Ronald Dean Polkingharn)の存在があった。ロニーは母デビーの異父弟で、エミネムが産まれる6週間前に産まれており、二人は兄弟のような関係だったという。母デビーと叔父ロニーは異父兄弟である。
エミネムが初めて聞いたラップ・ソングは1984年に公開された映画『Breakin’』(邦題:ブレイクダンス)のサウンドトラックに収録されていた『 Reckless 』だった。叔父・ロニーが聴かせてくれたのだ。
出典:https://www.rollingstone.com/music/music-news/eminem-blows-up-91979/

1987年にLL・クール・J(LL Cool J)が『 I’m Bad 』をリリースした時、自分もラップをやってみたいと思ったと語っている。
LL・クール・Jのラジオ番組『The Influence of Hip-Hop』の第一回放送にエミネムがゲスト出演した際に、「デトロイトの小さな少年がどうやってラップを始めたのか」とLLから質問され-

「あなたや(LLの事)、ラン・DMC、ビースティー・ボーイズ、アイス・T…ファット・ボーイズらへんかな。音楽の何かが俺に語りかけてきたんだ。それはとても新鮮で、何か違っていて、さわやかで、歌う必要も無かったんだ。子供の頃の自分に語りかけてきた。あなたのようになりたかった。変に聞こえないといいんだけど…絶対にあなたやRun-DMCのようになりたかった」
-ラジオ番組『The Influence of Hip-Hop』にて2018年

それ以降、本格的にラップにのめり込んでいった。その当時の事を母デビーが語っています

「彼はテーブルナプキンや紙の切れ端に歌詞を殴り書きしていた。スーパーのレシートにもよ。息子は言葉の意味を聞くために、夜中に寝ている私を起こしてくるの。だから、辞書を買ってあげた。彼は珍しい言葉や意味を学んでいったのよ」
出典:デビー・マザーズ、「My Son Marshall, My Son Eminem」2007年

1991年、叔父ロニーが19歳で自殺。女性に振られたことが原因だった。当時の二人は音楽的嗜好の違いで仲たがいしていた。ラップに夢中になっていたエミネムと、ロニーはラップよりもロックを好んでいった。2年近く口もきかない関係だったがロニーが自殺した時、エミネムは悲しみのあまり数日間言葉を発することが出来なかったという。葬儀に出席することもできないほど落ち込んでいた。
出典:https://www.rollingstone.com/music/music-news/eminem-blows-up-91979/

【第一章】のまとめ

  • エミネムの両親はバンドマンで、楽曲作りに母の影響を少なからず受けている
  • 幼いころから父親を知らない生活を送っており、生活保護の母と貧困生活を送っていた
  • 小学生の頃にイジメにあい、脳障害を起こすほどの怪我を負った
  • 父親とは一度も会話することなく死別。父の死を受けて作った曲『Leaving Heaven』をリリースしている
  • 叔父ロニーの影響でラップ・ソングを知り、ヒップホップの世界に飛び込んでいった
  • エミネムの左腕には叔父ロニーのタトゥーが描かれている

【第二章】に続きます

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コメント

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