ABOUT THIS ALBUM
音源流出、ビーフ、そして終わらせるためのアンコール
『Encore』は、エミネムのキャリアの中でも、最も複雑な背景を背負ったアルバムである。単に評価が割れる作品というだけではない。本作は、本来の構成を音源流出によって崩され、さらにBenzino/The Source、Ja Rule/Murder Inc.とのビーフの余波を抱えたまま世に出た作品である。 『The Slim Shady LP』『The Marshall Mathers LP』『The Eminem Show』という三作で、エミネムは自分の別人格、本名、そして社会的イメージを順に作品化してきた。特に『The Eminem Show』は、私生活、家族、裁判、メディア批判、スターとしての重圧をすべて舞台上にさらけ出したアルバムだった。そこでエミネムは、自分という存在をほとんど語り尽くしてしまったようにも見えた。
だから『Encore』には、最初から「その後」の空気がある。 本編は終わった。だが観客はまだ帰らない。 タイトルの「Encore」は華やかな再登場を意味する一方で、エミネムにとっては少し残酷な言葉でもある。彼は求められて戻ってきた。しかし同時に、戻らざるを得なかった。 この時期のエミネムは、すでにラッパーという枠を超えていた。D12、Shady Records、50 Cent、G-Unit、Obie Trice、映画『8 Mile』、サウンドトラック、プロデュース業。彼の周囲には巨大な陣営が形成され、エミネム個人の発言や行動は、Shady Records全体の動きとして受け取られるようになっていた。※1 そのため、2002年頃から本格化したビーフも、エミネム個人だけの問題では済まなくなっていく。※2
ひとつは、Benzinoとの対立である。Benzinoは当時、ヒップホップ誌『The Source』の共同経営者でもあり、エミネムに対して批判的な立場を取っていた。両者の対立は、単なるラッパー同士の口論ではなく、エミネムという白人ラッパーがヒップホップ内でどのように受け止められるのか、メディアがその評価にどう関わるのかという問題にもつながっていた。※3 このビーフには、D12、G-Unit、Obie Trice、Dr. Dre、DMXといったエミネム側の仲間たちも関わっていく。つまり、エミネム対Benzinoという図式は、次第にShady Records周辺と反エミネム側の対立へ拡大していった。エミネムは「The Sauce」や「Nail in the Coffin」などで応酬し、Benzino側も反撃する。ここで重要なのは、エミネムが単に怒っていたのではなく、ラッパーとしての技術、ユーモア、攻撃性を使って、自分の立場を守ろうとしていた点である。 もうひとつの大きな対立が、Ja Rule/Murder Inc.とのビーフである。これはもともと50 CentとJa Ruleの対立から始まったものだったが、50 CentがShady/Aftermath陣営に加わったことで、エミネムやD12、Obie Triceも巻き込まれていく。Ja Ruleがエミネムの家族、とりわけ娘ヘイリーに触れる形で挑発したことは、エミネム側にとって決定的だった。※4
エミネムにとって、ヘイリーは単なる家族ではない。彼のキャリアの根本にある存在であり、成功を求めた理由そのものでもある。だからこそ、家族を攻撃対象にされた瞬間、ビーフは単なる言葉遊びでは済まなくなる。Shady Records側は「Bump Heads」「Doe Rae Me」「Hail Mary」などで激しく反撃し、この時期のエミネム周辺は、常に戦闘状態に近い緊張を帯びていた。 この抗争の空気は、『Encore』を考えるうえで避けて通れない。 なぜなら、『Encore』にはビーフを続けるアルバムとしての顔と、ビーフを終わらせようとするアルバムとしての顔が同居しているからだ。 その象徴が「Like Toy Soldiers」である。この曲でエミネムは、抗争を勝ち負けのゲームとして描かない。むしろ、ディスの応酬が仲間を巻き込み、現実の暴力や取り返しのつかない悲劇へつながっていく危険性を見つめている。かつては言葉で相手を打ち負かすことを武器にしてきたエミネムが、ここでは報復の連鎖そのものに疲れている。※5 この変化は大きい。
『The Marshall Mathers LP』や『The Eminem Show』のエミネムなら、攻撃されたらさらに鋭く攻撃し返すことが表現の中心だった。しかし『Encore』のエミネムは、そのやり方が自分だけでなく、仲間や家族まで危険にさらすことを理解し始めている。「Like Toy Soldiers」は、Shady Recordsの勝利宣言ではない。むしろ、勝ち負けの先にある虚しさを見た曲である。 同時に、『Encore』にはまだ悪ふざけの攻撃性も残っている。「Big Weenie」のような曲には、相手を茶化し、矮小化し、笑い飛ばすエミネムらしいディス感覚がある。しかし、それは以前ほど鋭い殺傷力を持つというより、どこか惰性にも近い。戦い続けてきた男が、それでもまだ冗談の形で拳を振り上げてしまうような感触がある。 さらに、『Encore』を語るうえで決定的なのが音源流出である。※6
後年のインタビューでエミネムは、本来アルバムに入るはずだった楽曲の一部が流出したため、構成を変更せざるを得なかったと語っている。“We as Americans”や“Love You More”のような楽曲は、単なる余り曲ではない。政治的な緊張感、個人的な痛み、対人関係の歪みを含んだ重要曲であり、本来の『Encore』の中心を担っていた可能性が高い。 特に“We as Americans”がアルバム冒頭に置かれる構想があったという点は重要である。もしこの曲から『Encore』が始まっていたなら、作品全体の印象は大きく変わっていただろう。そこには、『The Eminem Show』から続く社会への苛立ち、監視されるスターとしての不穏さ、そしてアメリカそのものへの違和感がより強く刻まれていたはずである。
しかし、現実に世に出た『Encore』は、その本来の骨格を失っている。 流出によって作り直しを迫られた結果、アルバムには「Ass Like That」「Rain Man」「Big Weenie」のような悪ふざけの強い曲が目立つようになった。もちろん、ナンセンスで下品なユーモアはエミネムの重要な武器である。だが本作におけるそれは、初期の鋭いブラックユーモアとは少し違う。どこか投げやりで、空白を埋めるための悪ふざけにも見える。 そのため『Encore』は、二重の意味で壊れている。 ひとつは、音源流出によって本来の構成を壊されたアルバムであるということ。 もうひとつは、ビーフと名声と依存症と疲労によって、エミネム自身の集中力が壊れかけていた時期のアルバムであるということだ。※7 だから本作は、単純に「前作より弱い」と片づけるべきではない。確かに『The Eminem Show』のような緊密さはない。曲ごとの温度差も大きく、アルバム全体の完成度には揺らぎがある。しかし、その揺らぎこそが『Encore』の現実である。
「Mockingbird」では、父親としての後悔と愛情が極めて率直に語られる。「Yellow Brick Road」では、自身の過去の問題発言と向き合おうとする姿勢が見える。「Like Toy Soldiers」では、ビーフの勝敗ではなく、抗争そのものの危険性を見つめている。こうした曲を聴けば、『Encore』の中にも確かに鋭く、深いエミネムは存在している。 しかし同時に、本作には空回りもある。悪ふざけが過剰になり、シリアスな楽曲との落差が激しくなり、前作までのような一本の強い軸は見えにくい。その理由は、エミネムが単に気を抜いたからではない。流出で設計図を崩され、ビーフで精神をすり減らし、周囲の巨大な期待に押し込まれた結果として、このアルバムは歪んだのである。 その意味で『Encore』は、完成された傑作ではなく、完成し損ねた重要作である。
ここに本作の面白さがある。『Encore』には、実際に発売されたアルバムと、流出がなければ存在したかもしれない別のアルバムが重なっている。さらにそこへ、Benzinoとの対立、The Sourceをめぐる問題、Ja Ruleとのビーフ、Shady Records全体を巻き込んだ抗争が影を落としている。 『Encore』は、エミネムが勝ち続けていた時期のアルバムではない。 勝ち続けることに疲れ始めた時期のアルバムである。 かつて彼にとってディスは、自分を守るための武器だった。だが『Encore』では、その武器が周囲を傷つけ、自分自身をも追い詰めるものになり始めている。だから「Like Toy Soldiers」は重要なのだ。そこには、戦うラッパーとしてのエミネムだけでなく、戦いを止めたいと感じ始めたエミネムがいる。 タイトルの「Encore」は、観客に求められてもう一度ステージに戻ることを意味する。だが、このアルバムにおけるアンコールは、単なる勝利の再登場ではない。流出で形を変えられ、ビーフで消耗し、巨大化した自分自身に押し潰されながら、それでも舞台に戻ってきた男の記録である。
『Encore』は、エミネムの最高傑作ではない。 しかし、エミネムという表現者が頂点のあとに何を失い、何に疲れ、何を終わらせようとしたのかを知るうえでは、欠かすことのできないアルバムである。 華やかな拍手の裏に、疲労がある。 悪ふざけの裏に、空白がある。 ディスの裏に、終わらせたいという願いがある。 そして散漫さの裏には、流出によって失われた本来の構成がある。 『Encore』とは、幕が下りた後にもう一度呼び戻されたエミネムのアルバムである。 それは勝利のアンコールであると同時に、戦いを終わらせるための苦いアンコールでもある。